日米研究体制の違いの本質
讀賣新聞3月17日の一面「列島再生:新たな国土づくり」で世界的な大学連携の紹介がありました。政府の研究を支える体制の問題提起、日本の大学の研究体制に関する問題提起がされました。
私は、日米の大学で学んだ体験を通して、どなたも書いていない課題を提起します。双方の根本的な違いの本質を理解することであり、日本の大学批判、問題指摘の類ではありません。
キーワード風に言うと、「相撲部屋」と「プロレス興行(あるいは野球でもよい)」の違いです。大学研究室含め、日本の社会は相撲部屋に例え、アメリカをプロレス(野球)興行に例えると分かり易いです。
外国人が相撲に参加する際、相撲部屋に弟子入りさせられ、親方、先輩からげんこつ含め徹底的にしごかれ、日本人以上に日本語がうまく話せるようになり、日本式生活の中で相撲の稽古に励むことになります。
プロレス(野球でも)では、能力あればどこのリングにでも参加でき、英語を話せなくても、陽気で親切な仲間が(もちろんライバルではあるが)支えてくれ、技を教えてもらい、上を目指し頑張ります。
メジャーリーグから帰ってきた新庄選手は、「英語はどの程度上達しましたか?」の記者の質問に「How are you doing?程度は覚えたよ…」でした。恐らく、失礼ながら、イチローも松井の英語力もその程度と思います。
メジャーのチームで先輩達から、英語を覚えさせるためのシゴキや鉄拳制裁はありません。アメリカには、そもそも先輩・後輩という実態、概念がありません。全てファーストネームで呼び合います。教授に対しても同様です。
日本の大学では、研究室制度で、研究室に属すことを義務付けられます。相撲部屋の徒弟制度と同じです。教授は親方であり、先輩、後輩の関係は厳然としています。あまり自由な討論をする環境ではないと思います。
アメリカの大学には研究室制度がありません。プロレス興行と同じで、どこのリングに上がっても、自由選択です。教授など研究リーダーはいますが、親方ではありません。討論は自由ですし、また、討論が重要視されます。
日本の大学では、卒論生として研究室に在籍を義務付けられ、もし、大学院に進学する場合、修士課程、博士課程も同じ研究室に在籍することが義務づけられます。相撲でも同じ相撲部屋の在籍が義務付けられます。
アメリカでは、学部を卒業すると、一度社会人を経験し、それから学部と異なる大学の修士課程に入り、さらに、社会で実務を積み、必要と思えば、また、異なる大学の博士課程に入ります。
日米の大学には、以上のような本質的な違いがあります。日本の大学制度は変わらないでしょう。変えられないでしょう。第2次大戦後のマッカーサーのような人物が現れない限り。
私は、日本の大学は問題があり、アメリカの大学は優れているという主張をしているのではなく、日本には、相撲文化があり、外国人が憧れ、相撲とりになるために来日する意欲ある若者がそこそこおります。
アメリカの大学の評価軸と比較したら、負けるに決まっております。相撲文化を育てるような気持で、日本の方式の研究運営を進めたらよいと思います。
相撲協会全体が相撲取りの面倒みるような体制があります。素晴らしいです。
教授(親方)が、就職先を探してくれ、斡旋をしてくれます。場合により婚活のお見合いや仲人もやってくれます。アメリカの大学にはないことです。家族的なところがあります。
そうした違いを認識しないと、一面的にどちらが良いということはできません。一方、相撲部屋とプロレス(野球)方式の並立を考えないと、欧米志向の海外の人材は日本に来ませし、欧米志向の日本人はアメリカの大学に流出します。
技術士稲門会会長、
技術士(建設)、博士(工学)、一級建築士
1972年建築卒、1974年修士卒
元早稲田大学理工総研客員研究員
元早稲田大学国際部同窓会長
(フルブライト同窓会会長)